武田家臣団の中にご先祖はいるか?



こんな資料をあさっていたある日、私は何も期待しないで、世田谷の実家近く、三軒茶屋
の小さな書店に入った。専門書なども少なく雑誌や漫画本で商売をしているような本屋
だから、「何か佐野家関連資料はないかな?」なんて思いは微塵もなかった。

ところがだ、古本屋ならいざ知らず、こんな小規模な「街の書店」だというのに、なぜか単
行本で「甲州武田家臣団」(土橋治重著)なる本があった。これは著者が、あらゆる史料
を駆使して武田家に仕えていた武士2200名を、詳細不明でも何でも名だけは記載した、
というちょっと武田マニアっぽい珍しい本だ。

なぜ、こんなマニアックな本がそんな書店に置いてあったかはよく分からない。まぁ、こん
な時を見計らって「佐野一族」なんて本の案内が届くくらいだから、私の先祖調べは何故
かシンクロニシティ現象に救われているようだ。

ちなみに、我が祖母の実家は、常葉町のすぐ近くの岩間で「土橋」というが、著者・土橋
治重氏(山梨出身)と同系か?


ともかく、購入してひもとく。

さすが、甲州・武田家の家臣だけのことはあり、「佐野」を名乗っている武士は多い。全
部で14名いた。

 武田信玄    穴山信君

中でも、武田信玄の甥で信玄の娘と結婚していた穴山信君に仕えている、いわゆる「穴
山衆」の中には多い。この穴山家は河内地方の豪族なので、佐野家居住地からして当
然だとは言える。

以下にその「穴山衆」の中の佐野姓の家臣を一覧にする。

@ 佐野越前守泰光
A 佐野十右衛門
B 佐野内膳
C 佐野平右衛門
D 佐野日向守(その子は後に水戸家に仕える)
E 佐野将監
F 佐野新左衛門(剃髪して「鴎庵」と称す)

以下は「穴山衆」かは不明の家臣たち。

G 佐野源左衛門尉
H 佐野七郎兵衛
I 佐野縫殿右衛門尉
J 佐野半左衛門
K 佐野兵左衛門
L 佐野与十郎
M 佐野勘介(高橋城の合戦戦死者に名あり。多田次郎右衛門組手中の甲州武士)


@の佐野越前守泰光は、太田亮著「姓氏家系大辞典」の中にも「諏訪氏族佐野」として、
“八代郡大崩村の名族”のこの人の存在をあげている。つまり、諏訪氏系だ。また大崩
は竹之島から7km程度の距離で、佐野の地と竹之島の中間ポイントに位置していること
は、すでに述べた。

この泰光の息子である兵左衛門政光、孫の七郎兵衛は、それぞれKとHのことだろう。

この七郎兵衛の兄弟が貞綱といい水戸家に仕えているので、Dの佐野日向守とは、ま
ず同系だと思う。

この佐野日向守は、佐野筑後守友光(将監・十右衛門)の息子なので、この佐野筑後守
友光はAかも知れない。(ただ日向守の息子・重家も十右衛門だが、将監ではない)し
かし、一説によると、この日向守の息子と言われている重家は、@の泰光の孫であると
も言われているそうだ。というより泰光自身が友光の子・将監・越前守房次を父としてい
て、友光の孫であるという家系図もあるそうだ。(となると、E佐野将監はこの系図での
越前守・将監房次かも)

これほどに家系がこんぐらがっているのも、@泰光と佐野筑後守友光の家が近い関係
だったからだろう。

そうなると、「山梨名家録」の中で、この佐野筑後守友光のことを「下山の城主穴山伊豆
守信友に臣属す」としているから、確かに近い関係であると分かるが、その祖先を下野
国足利佐野庄に由来する藤原鎌足十数代の後胤成俊だとしていることが問題だ。

それぞれのキーパーソンの居住地も近い。この越前守泰光は大崩、その子・兵左衛門
政光は中村、上の筑後守友光は米子沢中野、その孫は福士矢島だ。(位置関係は前章
にある)

つまり、怪しげな「名家録」が何に結びつけて今の時代の当主を名家名門に仕立てようと
勝手だが、この佐野筑後守友光も、@佐野越前守泰光と同系だ。ということは、太田亮
著「姓氏家系大辞典」の中で、泰光が「諏訪氏族佐野」であると明記されていることか
ら、上記・家臣団の@、A、D、E、H、Kは、諏訪氏族系佐野であるということだ。

ここでもう一度、太田亮著「姓氏家系大辞典」の中の、例の部分を思い出してもらいた
い。

この甲州の佐野氏ついては新編常陸国志に「佐野。水戸の家譜に多し。甲州の佐
野より起こる。(佐野の地は甲州の南方、河内領という、冨士山の西につきて、山中
に佐野・下佐野あり)延寶6年、水戸侯の命にて、忠臣山縣源七が書きたる佐野譜
にいう家説に『甲州佐野は信州諏訪氏より出たるを以て、家紋に梶葉を用いるとい
う。』」とあり。

つまり、水戸家に仕えていた家臣らの中に甲州・佐野姓が何人もいて、河内領の「佐野」
の地(つまり第3の章で扱う上佐野・下佐野のこと。山梨に「佐野」は他になし)が発祥の
一族で、信州諏訪氏の流れなので家紋が「梶葉」を使っている、とこの戦国時代から100
年程度の延寶6年の時点で言ってるわけだ。

しかもこの一族の重家やら貞綱らが「水戸家に仕う」と書かれていることにも符合する。

そしてさらに、Iの佐野縫殿右衛門尉であるが、「佐野一族」のこの部分を。

甲州出身にて、水戸家に仕えし佐野氏は、右(諏訪の流れで佐野の地に住する者が
佐野氏を号して、その末裔に井出の佐野家がある、として系図を掲載した部分のこと)
ほかにも少なからず。「甲斐國志」の七庶部、八代郡の章に、井出村の人として佐野
下野守、伯耆守のことを記す。伯耆守とは前記の長吉のことなりや。(井出の佐野系
図に載っていることを指している)天文元年二月に歿せし人に佐野備後守綱好、下
佐野の人に同讃岐守盛次ありとも記したり。同郡湯奥村には佐野縫殿右衛ありとい
う。

 上空1350mからの湯奥

この縫殿右衛は、Iの縫殿右衛門尉のことであろう。(湯奥村については前章参照。近
隣だ。穴山氏の勢力基盤だった湯之奥金山とかあり、湯奥の佐野氏は代官を勤めた)

つまり、このIも、諏訪系の佐野であるとすると、土橋治重氏が「あらゆる史料を駆使し
て調べ上げた家臣団名」の中に出てくる武田家臣団・佐野姓14名の内、7名がこの諏訪
氏系だということになる。

また、その例の諏訪系をちゃんと伝えている井出の佐野氏だが、戦国末期の人で佐野
出羽守光次といい、武田信虎に仕え、穴山衆だと記載されている。その子、市右衛門
は、武田家臣・穴山衆とあり、天正三年に軍功あり、と。そしてその市右衛門の兄弟であ
る藤右ェ門の曾孫二人が共に水戸家に仕えている。

前掲の友光、泰光の「光」つながりで光次だし、同じ頃の穴山衆の武士ということなの
で、かなり同系っぽい。

こちらも後継者らが水戸家に仕えているし、すでに30余の分家が井出周辺にあるらしい
が、地理的にも同系だと推測できる。(ただし、「山梨名家録」や「佐野一族」は友光・泰
光系を「傳う」とか「一説には」とかの前置きをしつつ、下野佐野、秀郷流としての来歴を
記しているが) 参考資料としては格上で信憑性の高い太田亮著「姓氏家系大辞典」に
よると、泰光は諏訪氏系の佐野とされているし、甲州佐野が秀郷流とされているのは「附
会」と皮肉られているし、また戦国時代からまだ1世紀程度の水戸家に仕える甲州佐野
家・調査内容である公的資料にも、諏訪家の流れで佐野の地より興るをもって家紋に梶
葉を使っている、と明記されている。友光・泰光そして光次の家系も共に後継者が水戸
家に仕えているということを見ても、同系であり、すべて諏訪氏系と推測できるわけだ。

ただ、土橋氏の「甲州武田家臣団」の中には、残念ながらこの井出の佐野光次の関係
者は記載されていない。まぁ、在郷の佐野家の史料のすべてを土橋氏も閲覧できるわけ
ではないから仕方ないと思う。



そして、肝心なる我が先祖が、武田家臣団に名を連ねているかと言うと、いない、だ。

多分、諏訪氏系として先祖を一にしていたとしても、もうこの戦国の御代には、分家だ末
流だのと枝分かれしてしまっているのだろう。あまり横のつながりみたいなものはないは
ずだ。地域的には「穴山衆」地域なのだが。すでに帰農したから、もう戦とは縁切りか?

 常葉から遠望する竹之島

中興の祖である次郎左衛門徳将の兄である佐野治兵衛は、「佐野より常葉滝の島に移
り、常葉氏に随従して領地の一角を護る」と名家録の祖父の項にあるわけだが、まず
は常葉滝の島、というが不明。十中八九、「滝の島」は「竹之島」の間違いだと思う。そし
て、常葉氏というのは、太田亮著「姓氏家系大辞典」によれば次のようにある。

常葉氏
清和源氏武田氏族。甲斐国八代郡常葉より起こる。秋山太郎光朝の男・常葉二
郎光季の後にして、常葉は東河内領の村名也。嘉吉頃、常葉丹後守光泰あり。

嘉吉とは1441〜1443。常葉氏はそんなわけで、同じ清和源氏武田氏族であるわけだ。

しかし、下部町常葉にのこる「常葉氏館跡」の説明文によると、この常葉氏は上記の引
用中にある通り、源頼朝の策謀により滅ぼされた秋山太郎光朝の二男で、この常葉を
領した光季が始まりであるが、室町中期まで一帯を支配していた領主だ、とある。室町
時代(1394〜1573)で、中期までとなれば、治兵衛の時代(天文1532〜54)に常葉氏は
まだ領主だったのか? すでにこの辺りは馬場、三沢、穴山氏などの時代なのではなか
ろうか。・・・少し、その辺りが不明となる。

まぁ、仕えた領主は誰であれ、武田軍団であることに違いはないだろう。




私がかつて何かの集まりの席で名刺を頂いた、武田信玄から15代の高家武田家当主・武田昌信氏の名刺
(400年前ではこんなことできない)

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