第1回 資料で机上の空論を構築


まずは、山梨県南巨摩郡身延町常葉竹之島というところが、我が佐野家が大昔から住
み着いていた地である。ほぼ静岡との県境に位置しているエリアだ。竹之島など、かなり
詳しい地図で初めて薄らぼんやりとその名が登場するほどのところ。ネットでもどこかの
体験農場のBlogで紹介されているだけで、ほぼヒットしない無名度の高さ。


  

祖父はこの地があまりにも山深く、やっと日が昇ったかと思えばすぐに日の入りという、
山に囲まれたような田舎であることに危機感を覚えていたようだ。野心ある青年には、確
かに竹之島は「このままじゃ山に埋もれる....」と文字通りの不安を感じるであろう山里で
ある。

祖父については別頁にて語る。

ともかく、そんな地であるがすぐ横を身延線が走り、後で話す「佐野」の地よりはまだ開
けてはいるだろう。そもそも「佐野」という意味は、サヌ、サヤとも読み、語源は「狭野す
なわち狭い野」という意味。地勢を表しているわけで、地名となってそれが姓氏化したも
の。広々した開けた土地であるわけがない。


まず、我が家の家紋であるが、丸に梶の葉である。

そして、仏壇の「過去帳」の一番古いご先祖は、天正18年寅年(1590年)2月10日没の佐
野次郎左衛門徳将である。文禄2年巳年4月11日、つまり1593年没のその妻、も確認で
きる。フランスではヴァロワ王朝のアンリ3世が暗殺され、ブルボン家のアンリ4世が即位
したばかり、ユグノー内乱の真っ最中の頃だ。

ただ、その次に古い記載は、安永2年巳年11月22日没、つまり1773年没の重郎兵衛と、
宝暦10年辰年11月2日没、つまり1760年没のその妻になってしまう。フランス的には、あ
の内乱期からブルボン王朝爛熟期のロココ時代にタイムスリップだ。

昔の人は干支にこだわりがあるようだ。現代は正月しか意識しないし、一年中、干支な
ど忘れて生きているが。

ともかく、過去帳では何も分からない。そもそも大正期に祖父の代で東京に分家した佐
野家なわけだから仕方ない。江戸っ子は三代目から、というが、よく考えると私は純・江
戸っ子二代目なわけで、江戸っ子ではないことになる。


先述した「家紋の歴史入門」によると、この〇に梶の葉という家紋は、梶葉が諏訪神(建
御名方命)の神紋であるところから、この神を奉じる諏訪神家や信奉する武士たちが家
紋とした、とある。500円くらいのケチな本だが、この中に、「使用者の姓氏」という欄があ
る。

「源氏系」「藤原氏系」「平氏系」「小野氏系」とそれぞれあり、その「藤原氏系」のトップに
「佐野」がある。

    
藤原秀郷とその創建による佐野厄除大師


そこで、登場してくるのが、あの関東三大師のひとつ、佐野厄除大師で名高い藤原秀郷
の存在である。

平安中期の武将で、別名、田原藤太(俵藤太)とも。あの平将門を討ちとった武将であ
る。栃木県佐野市の佐野厄除大師は、将門を呪い殺すために944年に建てられたそう
だ。


でも、呪いといえば将門の首塚(東京都千代田区)の祟りの方が有名である。周囲のオフ
ィスビルでは首塚を見下ろすような窓を設置しない、首塚に尻を向けるような机の配置
はしない、企業も参加しての保存会が毎日花や線香をあげている、という強い祟りを恐
れられている将門の首塚。藤原秀郷・先祖説が本当なら私など、首塚に近づくだけで祟
られてしまうはずだ。


祖父も当然にこの説を信じていたようである。藤原秀郷の傍流が甲州(山梨)に移住した
史実が系図に残っており、こぞって山梨の佐野家は「秀郷の子孫」を名乗っているから
だ。

     

ここに、二つの資料がある。内一つの「田原族譜」など、日比谷に鹿鳴館が建てられた
明治16年(1883年)の発行であり、資料ではなく史料と言うべき古書である。



確かに、この古書の44頁に、秀郷(田原藤太)の子孫・佐野次郎刑部忠宗が「甲斐国ニ
住ス此子孫ヲ甲州佐野ト称ス」と書いてある。(上図は系図を私が作成したものである。
決して明治16年の「田原族譜」にこのような汚い図があるわけではない)

もう一つの資料は、昭和34年発行の「山梨名家録」である。これは、確かに色々な史料
を参考にしているのではあろうが、どうも胡散臭い。祖父の藤原秀郷先祖説も、この書
に多くを依存しているようだが、どうも怪しいと私は見た。そもそも、「名家録」など、こち
らが金を支払って体の良い家柄に仕立て上げてもらうパターンが多いからだ。

こんなふうに書いてある。(以下引用)


佐野の地は、甲斐八代郡東河内の南方冨士山の西について山中に佐野・下佐野
の部落あり、出羽守阿曾沼広綱(藤原秀郷流藤原姓足利氏族)、子小太郎広
親、故あって佐野の地に潜居し佐野姓を称し、子佐野次郎刑部忠宗の後裔を甲斐
の佐野と云う。甲斐源氏加賀美二郎直光の子秋光朝の二男下山太郎の弟常葉
二郎光季常城の領主となる。常葉氏の此地に館居せるは応永嘉吉の頃(1394〜
1443)にて威望隆盛を極め常葉殿と称せらる。佐野治兵衛、佐野より常葉滝の島
(竹之島)に移り、常葉氏に随従して領地の一角を護る。今庭内にある苔蝕したる五
輪塔数基は由緒ある名家たるを想わしむ。
天文中(1532〜54)、弟次郎左衛門家を別つ。国家の位牌曼荼羅に天正18庚寅
年2月10日得持院機屋洲創居士、文禄2己午年4月10日、得寿院家屋妙栄大姉
と夫婦の戒名あり。
これを中興の祖とし子孫農に帰し、治郎左衛門、重郎兵衛、文兵衛、彦兵衛を世
襲し、享保前後(1716〜35)酒造業を営み今に酒屋の呼称あり。治郎左衛門の子寅
吉継ぐ長男源一家を継ぐ。弟保房別家して一戸を創立す。・・・・ (引用以上)


最後の保房とは祖父の名であり、以下記述は祖父の経歴にふれている。

文中の小太郎広親とは、甲州佐野の開祖とされている忠宗の親である出羽守広親のこ
とである。「故あって佐野の地に潜居」とあるが、「第3回調査」のおりに話すが、この「佐
野の地」は、現代でも山奥の小村である。そんなところへ移り住むとなると、落人としか
考えられない。

今庭内にある苔蝕したる五輪塔数基については「第2回」の項で語る。

そもそもいつの時代の人かというと、この人の祖父・有綱が1186年没であるから、13世
紀の頃の人だ。今にあっても寂しい山里の800年前の状況など考慮すれば、「人目を避
けて逃げ隠れする」ためでないと、移り住むわけがない。この頃、祖父・有綱の兄・俊綱
などが平氏に味方して源氏に討ちとられている(1183年)ようだし、俊綱の子・忠綱も、源
平合戦の宇治川の戦で平氏の若武者として軍功あるが、後に源頼朝との戦に敗れ遁
走、吾妻鏡の1181年付の記録を最後に消息不明となっている。一族がもめにもめてい
る時期だ。

フランスでは国内の異端派にアルビジョワ十字軍が派遣された頃だが、もうそんな話は
やめよう。

しかし甲斐国(山梨)に移住した広親の父親・出羽守広綱は頼朝方だったし、阿曾沼城を
築城したし、息子の出羽守親綱は承久の乱(1221)の功績も認められているし、14世紀
中頃に没落するまで200年は、秀郷本流に比べてこちらの傍流は安泰のはず。落人にな
った理由が分からぬ。

親子や兄弟の関係も資料によってまちまちなので、あまり深入りしないで、次にいく。

この山梨名家録の中で語られている佐野・下佐野の地のすぐ近くに井出という村があ
る。そこにも「佐野家」があり、その佐野某の箇所にはこうある。「清和源氏貞純親王の
孫下野守満快の末葉、源為公信濃守に任ぜられ因て諏訪を氏とす。世々武田氏に属
し、甲斐佐野邑に住し佐野と改称す」とある。つまり、源為公(諏訪氏)の流れの者が佐野
の地にきて、佐野を名乗ったという説明。

言ってることが違うじゃないの !

そこでどこの図書館にも置いてある貸出禁止本の太田亮著「姓氏家系大辞典」という分
厚い辞典から、信憑性の高い情報を仕入れた。

そこにはこうある。

甲州藤姓佐野氏

當国の佐野氏は「阿曾沼出羽守広綱--小太郎広親(出羽守)--忠宗(佐野次郎、
刑部)」の後 にて、刑部甲斐国に住す。その子孫を甲州佐野と云うなれど附会か。


注目すべきは、最後の二文字である。「附会」 ? この「ふかい」とは一体どういう意味な
のだ ?
goo辞典にはこうある。「 こじつけること。無理に関係づけること。」

なんのことはない、山梨の佐野家にはつきものの出鱈目ということだ。(推定で「その子
孫なり」と断定しているのだから、それは出鱈目と表現すべきことだ)

つまり、祖父も信じていた藤原秀郷・先祖説は、いくら頑張って見ても無理ということであ
る。

甲斐国に流れてきた傍流の阿曾沼氏の家紋は巴紋とか横木瓜紋なので、我が家が丸
に梶の葉紋を使用していることが、藤原系だから秀郷つながりだとする論拠も弱すぎる。

で、ここに奇跡的な出来事が起きた。

一通の封書が届いた。

なんの因果か、それは「日本家系協会」からのDMで、『佐野一族』購入の案内。

このシンクロニシティにはかなり驚いたものだ。

当然、有無を言わさず購入した。

  日本家系協会 昭和57年刊


こうして、私は昭和59年のフランス大革命記念日(7月14日)に新たなる資料を手に入れ
た。

この本には、全国の「佐野」の諸流すべてが網羅されているが、やはり山梨では、「藤原
氏諸流」と「諏訪氏系」の二派が認められる。

まず、秀郷の子孫である忠宗の流れが甲州に分家していった箇所。

系中に見ゆる刑部忠宗の子孫、甲斐國八代郡円滝村に住し、喜兵衛、弥兵衛を
襲名して、名主長百姓たり。(中略)今も巨摩郡大河内に住す。又、八代郡東河内
の領主常葉氏に仕えし佐野治兵衛あり、戦国末期より此の地に土着帰農し、一族繁
栄して此の地にあり。

とある。これが実に微妙な文章なのだ。円滝村というのは所在が分からぬが、大河内は
確かに「佐野の地」に近い。竹之島よりも近い。だが、諏訪氏の流れである佐野家があ
る井出と「佐野の地」との距離とは同じ程度。従って二つの記述が確かなら、こんな狭域
に別の流れの佐野家が併存していることになる。



また、最も注目すべきキーパーソンである「佐野治兵衛」、つまり我が家の開祖・次郎左
衛門徳将の兄と目される人物が、この秀郷流佐野家の一文の中に登場してしまっている
こと。

「東河内」とは地域名。従って「此の地」とは漠然としている。そして、大河内に住む秀郷
系佐野家の記述とは別に、「又、〜」と追記されているだけで、この家系との関連性につ
いては触れられていない。恐らく、断片的な史実を地域的に近いからと結合させて併記
したのだろう。そもそも諏訪氏系がほぼ確定している井出村の佐野氏自体が東河内で
はないか !

少なくとも、この資料の秀郷系には、「佐野の地」がからんでこない。(あの怪しい「名家
録」だけが、忠宗の系の移住先が「佐野の地」だと言い切っているだけ)

ここでもう少し読み進むと、「名家録」の中でも出てくる井出の佐野家についての記述が
見つかる。こちらは察するに、明確な史料の裏付けのある佐野家のようだ。

 井出の上空写真

(信濃源氏系の木曽氏)

下野守満快の子孫は、所謂信濃源氏と称せられ、伊那、片切、夏目、手塚など、
多くの氏を分出せり、諏訪氏も此の一族と傳えられ、甲斐国八代郡佐野に住する
者、佐野氏を号す。中間の世系を欠きたるも、戦国時代末期の人佐野出羽守光次
以後、左の系脈を傳えたり。

そして出羽守で、穴山衆で、武田信虎に仕え、八代郡東河内井出に住んでいた光次か
ら現在に至るまでの系図を詳細に記載。

また、水戸家に仕えた佐野氏の中に甲州出身者が多く、「甲斐國志」という書物の八代
郡の章に、井出村出身の佐野下野守、伯耆守(上述の系図の中にも出てくる人)、下佐
野(佐野の地の隣村)の人に佐野讃岐守盛次、湯奥村には佐野縫殿右衛などが確認で
きるとある。

この最後の湯奥村など先述の大河内村の隣村だ。(上図参照) つまり秀郷系の佐野氏
の地域内。つまり断片的な史実を散りばめているのが「佐野一族」の書き方である証左
となる。佐野治兵衛の記述があの部分で登場したのもそんな縫い合わせ作業の結果だ
ろう。



ともかく、この井出村の佐野氏の家系図が史料として信憑性が高いということは、佐野
の地にいた佐野氏は諏訪氏系ということが確定できる。

また、この諏訪氏系の井出の佐野氏の記述とは別の個所で、改めて甲斐国の諏訪氏系
佐野氏について語られているところが出てくる。

甲斐には、信州の諏訪氏より出たるを以て「梶葉」の家紋を用うという流れもあり。(中
略)静岡県富士宮の佐野氏は、傳兵衛より七代を数え、「丸に梶の葉」を家紋とせ
り。

これこそ我が佐野家か ? と思うのだが、井出の佐野氏の系、つまり「佐野の地」にいた
諏訪氏系佐野氏としての史的確実性の高いこの一族との家紋の照合が出来ていない。
なぜなら、この資料の中で、なぜ、諏訪氏系同士なのに別項目なのか、という点が解せ
ないからだ。

もしや「佐野の地」にいた佐野家が「丸に梶の葉」ではないからなのか ?

そうしたら、佐野治兵衛がいくら佐野の地から出てきてどうのこうとのと言っても、矛盾し
てしまうというものだ。

文中の静岡県富士宮は佐野の地の東7キロ程度の隣接地。佐野姓が非常に多く、我が
家の知人も富士宮の佐野さんへ嫁いでいる。また、佐野の地への林道沿いに昭和18年
柿元ダムが出来たときも埋没した8戸が富士宮に転居。その中にも「佐野さん」がいたら
しい。

ところで、上記の記述の出典と思しき史料は延寶6年(1678)に水戸侯の命により山縣源
七が書いた「佐野譜」である。これは、例の「姓氏家系大辞典」の中の佐野氏の「諏訪氏
族」の項目にまったく同じ孫引があるから分かる。(私はこの大辞典の関連項目を世田
谷区立梅ヶ丘図書館で丸写ししているから、間違いない)

1678年といえば、まだ戦国の世から100年程度の頃だ。今よりはるかに多くの資料や証
人が揃っていたことだろう。しかも公的な資料として編纂された記録である。確実性はピ
カイチだ。

そんな姓氏家系大辞典の甲州佐野家の諏訪氏族の項の全体はこうである。

甲州の佐野氏ついては新編常陸国志に「佐野。水戸の家譜に多し。甲州の佐野よ
り起こる。(佐野の地は甲州の南方、河内領という、冨士山の西につきて、山中に佐
野・下佐野あり)延寶6年、水戸侯の命にて、忠臣山縣源七が書きたる佐野譜にいう
家説に『甲州佐野は信州諏訪氏より出たるを以て、家紋に梶葉を用いるという。
世々忠の字を以て名とす』とあり」と。



この新編常陸国志は19世紀前半期に編纂された史料だが、水戸にいる佐野氏たちの
出身が甲州で、「佐野の地」に由来する一族であり、彼らは諏訪氏系だから梶の葉の家
紋を使っている、と記録しているのだ。わざわざ一世紀半も前の公的記録まで引用して。

これはすべてに優る史料である。

また、客観的な歴史資料である同書の「諏訪氏族佐野」の項にこうある。

八代郡大崩村の名族にこの一族あって、佐野越前守泰光等諸書に見ゆ。

この「佐野越前守泰光」とは、武田家臣団の穴山衆(この周辺を指す“河内地方”の領
主・穴山信君に仕えた家臣団)の中にも一族と共に名があり、後裔が確かに水戸家に仕
えているので、間違いない。また、この一族の居所が「米子沢の中野」「中村」「福士の矢
島」と別書に記されている。文中「大崩」と合せて下記のようにつなげて見る。(距離は直
線距離)(また、「佐野一族」では、佐野越前守泰光の一族を「下野佐野氏の分かれと傳
う。」として、「一説に」と、景綱とか清綱とか秀郷流れの伝承を記しているが、太田亮氏
の「姓氏家系大辞典」の記述の方が信憑性が高いので、この一族を「諏訪氏系」と見る)

 それぞれの居住地の分布

佐野⇔大崩もちゃんと山道が繋がっている。諏訪系が固い井出の佐野家の地も当然、
佐野の地と繋がっている(今は東海自然歩道)。つまり、佐野の地を中心に諏訪氏系佐
野家が分布しているわけだ。ここに、「姓氏家系大辞典」で「附会」(こじつけ)かと皮肉ら
れた秀郷系を想定するのは不自然だ。

我が家は、栃木の藤原秀郷ではなく、誰だか知らぬが長野の諏訪氏某がご先祖。



信州諏訪から遠望する山々の向こうの甲州

あとは佐野の地周辺の「佐野」の家紋が同じ「丸に梶の葉」か確かめるだけだ。

ともかく、まずは竹之島の現地調査をするしかない。

系とか流とか、そんなこと関係なしにともかく私のご先祖らが眠る竹之島に乗り込み、さ
らなる手がかりを得るしかない !

ということで、いよいよ机上の絵空事から、リアルな世界へ。




戻る
戻る


武田家臣団の中にご先祖はいるか?
武田家臣団の中にご先祖はいるか?
冨士宮の「佐野氏」との関連
冨士宮の「佐野氏」との関連
inserted by FC2 system