6代前の彦兵衛さんまでの系図について

先ず、私はY彦という。兄のK彦と二人兄弟である。父は幹彦といい、すでに鬼籍に入っ
ている。母は紀子である。そして、祖父母は例の保房(やすふさ)と、岩間の土橋家出身
のきみじ、という。

 

         祖父・保房と祖母・きみじ   父・幹彦と母・紀子(当然、若い頃の写真である)

私の身の回りの親族たちが把握しているのは、なんとここまでで、おそらく、これから後
世は、祖父母の保房・きみじ止まりの家系図しか期待できない。

そこで、あまり手遅れにならない内に、私の知り得た範囲で少しだけ遡っておく。そもそ
も手遅れの感なのだが・・・

祖父の父母、つまり私にとっての曽祖父母は、寅吉・春子である。母は生前に一度だけ
この春子さんには会っているという。

    

      曽祖父母の過去帳(祖父記入)         曽祖父・寅吉と曾祖母・春子




そして、その寅吉の父母、つまり私の高祖父母は、与左衛門・はな、である。これは、私
の祖父・保房が仏壇の「過去帳」の中に自分の「祖父・祖母」として記載しているので、な
んとか確認できた。その記載がなければ、なんと、与左衛門さん・はなさんが、祖父の祖
父母であることすら、確実に「歴史の闇」の中に忘却されていたはずだ。

父の生前ならばもう少し聞き伝えの情報もあったろうが、上述のように、今現在すでに、
私の祖父母までの知識が限界になっていることを鑑みると、生前の父が、はたして父に
とっての曽祖父・母である与左衛門さん、はなさんを認識していたか怪しいものだ。




高祖父母の過去帳(祖父記入)

ここで、早くも少し記録が混乱してくる。例の竹之島にあった掛け軸なのだが、この与左
衛門さんと妻はなさんの記載が少々おかしいのだ。

まず、与左衛門は上図の通り明治26年8月9日没なのだが、この没年月日と同じものが
掛け軸では、「秋安了悟大姉」さんであり、当然「女性」。過去帳にも登場し、やはりその
没年月日で、小さく「伐野文三・妻」とか書かれている。何だ?「伐野?」。伐野家に嫁い
だ出戻り娘か? しかも、与左衛門さんの戒名「慈得院紅山明葉居士」が掛け軸には俗
名の記載はなく、明治6年没、とだけ記されている。明治6年とは1873年だ。しかも紙を
貼り付けてあるし。(この下に何が書いてあったかは見てない)
この入り繰りは何を意味するのか?



まだある。
妻・はなさんは、掛け軸では、昭和15年9月23日没の女性として、寅吉・妻、春子の前に
記載されているが、こちらは戒名が「秋月院花顔壽大姉」になってしまっている。しかも
俗名記載はなし。本当にはなさん?って感じである。

しかし、まぁ、祖父・保房にとっては与左衛門おじいちゃんは生まれる前に他界している
から知らないとしても、はなおばあちゃんは1940年没だから、自分が41歳の時まで健在
だった身内だ、戒名や没年月日を間違えることはないと判断できる。上図のように、自ら
の手で過去帳に「祖父・祖母」として記入しているのだから。



また、寅吉さんの院号が「梅光院」なのに対して、妻・春子さんのは「梅香院」というよう
に、同音異語にしているのだ。上図の、与左衛門さんが「慈得院」なのに対して、妻・は
なさんが「慈徳院」というのも、整合性はある。よって、祖父記入の上図で良いと思うのだ
が。

それか、その伐野文三・妻の「秋安了悟大姉」さんも、やはり祖父の手により記入された
ものと思うが、これは単純に「掛け軸」からの転記によるもので、掛け軸自体が何かの事
情で誤記したのか? 掛け軸は、前章でも書いたが、祖父の長兄・源重さんが最後は書
いていたものと推定される。源重さんにとっても、与左衛門さんやはなさんは「祖父母」な
のだが、戒名を間違えたり、未記載であったりすることはあり得るのか? 祖母であるは
ずの人の戒名が「秋月院〜」となっているのは前記したが、その筆跡は、寅吉・春子の
戒名を記入したものと同じである。だから長男として掛け軸を管理していた源重さんの筆
跡だと思われる。・・・もはや謎のままだ。



で、その次となると、もはや「先祖」の領域となるわけだが、悲しいことに、過去帳や竹之
島にあったあの「掛け軸」からの情報から推定するしかなくなる。ただ年代的に確定可能
ではあるので、恐らくは正しい。もしも違っていたら、この間違ったままの系図が子々
孫々に引き継がれてしまうわけだが、大した影響はないだろうから勘弁してもらいたい。



文兵衛夫妻の過去帳

まず、この高祖父・与左衛門さんの父親は明治22年(1889)7月14日没(ぴったりフラン
ス革命勃発日から100年ジャスト)の文兵衛さんであろう。母親は、明治3年(1870)8月9
日没の「文兵衛・妻」であろう。

この時代になると、非常に腹が立つのであるが、女性の俗名がない。高祖母・はなさん
が最後で、それから先は、みんな「〇〇の妻」となる。とても切ないし、不甲斐ない。私の
前世がこの時代の日本女性だったら、「〇〇の妻」なんて呼び方では成仏できそうにな
い。戒名メインとは言え、男も世襲名で歴代みんな〇△兵衛でも、女性の俗名くらいどっ
かに記録して欲しいものだ。文句言っても仕方ない話だが。



彦兵衛夫妻の過去帳


そして、次、文兵衛さんの親は、安政6年(1859)1月14日没の彦兵衛、文政10年(1827)
2月2日没の彦兵衛・妻であろう。(この彦兵衛・妻は墓石も確認)

こうして、明治維新を知らず、完全に江戸時代に人生を完結した人々まで辿り着いた。
昭和34年(1959)生まれの私を中心にすれば、6代昔のご先祖ということになる。

彦兵衛さんが亡くなった100年後に私が誕生したわけである。

ところが、なんと、ここで終わりとなる。もはや、その先は不明である。

重郎兵衛・妻という人が宝暦10年(1760)11月2日没で確認。同じく重郎兵衛・母という人
が元〇2巳年3月8日没であるが、これは元文だと推定。元文2年(1737)は巳年だし、息
子・重郎兵衛が安政2年(1773)5月9日没とあるので計算も合う。(ただこの重郎兵衛は
名前の末尾に「了」とあるが、何の意味?) その重郎兵衛・母が、記録に残っている最
古の人だ。年代としては1737年ということになる。

重郎兵衛・父というのが文化14年11月22日没と過去帳にも掛け軸にもあるが、文化14
年は1817年で、丑年という記載にも合致するが、前章で言及したように、あまりにも「妻」
「子」などの近親者との年代が非現実的に離れており、やや疑問である。

多分、この重郎兵衛さんと彦兵衛さんの間に、徴(?)山利壁上座(1818没)・戒室妙珠
大姉夫婦とかが入ると思われる。

あと文政6年(1823)8月8日没の「庄左ェ門倅」というのが確認できる。


・・・・という具合に、もう分からぬ。戒名と没年月日のみとか戒名のみとかが散見される
が、かなりのものが「記録」にはなくなっていると思われる。特に、太祖である次郎左衛
門徳将が竹之島に来てから1590年に没して以降、まず17世紀の記録は皆無だ。立方体
の現代のような形状の墓石は江戸中期からの習慣らしい。従って五輪塔数基があるの
で慰霊塔として、何代も無記録のまま埋葬されてしまったのか、この辺、知識不足で分
からない。

ともかく、知り得た情報・資料の範囲では、私から数えて6代前の、安政6年(1859)1月
14日没の彦兵衛さんまでが、今のところ判明している系図となる。ナチスの親衛隊員の
入隊審査では、1750年まで先祖を遡って調査したそうだが、我が家は1859年が限界と
いうことだ。べつに親衛隊に入るわけではないので構わないが。





簡単なファミリー・ツリー

 遠いご先祖様〜
                     
                   〜
                     
 明治の男 !
                     
   昭和の政治家 !
                     
    戦争から平和へ!
                     
 平和ボケ・・・
                     
 そして今 !
               

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