冨士宮の「佐野氏」との関連

 
富士宮市


県も違うし、昔も甲斐国と駿河国の関係ではあるが、前述したように、この富士山西南
麓の町との立地は「隣接」みたいなものである。

甲斐には身延山があり、身延巡礼の3ルートのひとつとして、石神峠を超えて「佐野」に
入り、内船や大島へと抜けて行くコースが古くから開かれていた。武田信玄の知将として
名高い山本勘助もこの富士宮生まれと伝えられているので、甲斐国との人の交流も盛
んだったようだ。

富士宮に上稲子という地区があり、ここの集落との物流を目的に、室町時代の明応年間
(1492〜1501)に、上佐野の佐野五兵衛と息子・五郎兵衛が、人馬の通れる道を開通さ
せたのが始まりで、弘治3年(1557)に甲斐と駿河の境に石神を建立したことから、「石
神峠」と呼ばれるようになったそうだ。


石神峠の石仏

この佐野五兵衛親子は、年代的には、佐野治兵衛・次郎左衛門らと顔見知りであっても
おかしくない人たちだが。

ともかく、前にも少し話したが、我が家の知人が富士宮に嫁いだら、相手は「佐野さん」
だったというくらい、この地域の佐野姓は多い。今でも、学校でクラスが「佐野」だらけに
なり、下の名前で呼ぶしかないところもあるらしい。化粧品の訪問販売をしてこの地区を
担当したことのある人も「そういえばあそこは佐野さんだらけだった」とおっしゃる。

 佐野姓の分布密度
日本名字分布図鑑よりhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~myouzi/

佐野姓は密集率1〜7までの地域を山梨・静岡が独占しており、佐野市のある栃木
などベスト20にもランクインしていない。

そして、1地域は富士郡芝川町で、2位〜5位までをさすがに山梨南巨摩郡の町名が
占めている。下部は7位だ。しかし、2010年3月に1の芝川町が6の富士宮市に編入
合併されたので、当然、佐野密集度ナンバーワンは、今はこの富士宮であろう。

それほどに「佐野」だらけであるこの富士宮。

峠オタクみたいな人のあるブログにも、この石神峠あたりを一人でウロウロしていたら、
地元の人に声を掛けられ、それが縁で色々と話すことになり、この地元民が「佐野に住
んでいて、今は富士宮に転居した」と語っているのを聞いたそうだ。

今も昔も人の流れがかなりあるようだ。

 松姫  稲子の平維盛の墓

信玄の娘・松姫も戦に敗れて石神峠を超えて落ち延びたという伝説もあるし、稲子に
は、平維盛が臣下の佐野主殿と共にこの地へ潜居したとの伝説もある。後者の伝説
は、あの富士川の合戦(合戦場は隣接の富士市)で甲斐源氏・武田信義の部隊がたて
た水鳥の羽音に驚き壊走した、ちょっと恥ずかしい平家の敗北(1180年)の大将である
平維盛が、入水を装って、実は逃走、そのままこの稲子に落人部落を形成したというも
のだ。上稲子の棚田には、天保11年(1840)に再建された維盛の墓が建っていて、所有
者は「佐野さん」。

佐野の地にも平家落人伝説があるが、こんな近かったら、お互い困る気もする。「変わっ
た連中」がこっちにもあっちにもいるぞ! なんて噂になりそうで。

ともかく、「佐野一族」の中にもこうある。

東河内の大崩に住す。應永年中のことにて、一族駿河の稲子、富士山の西方など
に住するありと。

この大崩に住した佐野氏は、多分、前章にも書いた佐野越前守泰光(太田亮著「姓氏家
系大辞典」の中で諏訪氏系佐野として名が挙がっている人)の一族のことだろう。また應
永年間とは1394〜1427である。(石神峠ルートが開通する前だが)

また、同書の別の項でも・・・・

甲斐には、信州の諏訪氏より出たるを以て「梶葉」の家紋を用うという流れもあり。静
岡県富士宮の佐野氏は、傳兵衛より七代を数え「丸に梶の葉」を家紋とせり。

とある。つまり、この富士宮の佐野氏の中にも、信州諏訪氏の流れが、佐野の地経由
で、長い歴史の中で、徐々に移り住んで定住していったのかも知れない。

ちなみに俳優で歌手で、5代目水戸黄門をやった里見浩太朗氏は、本名を佐野邦俊とい
い、この富士宮出身で、家紋は、立ち梶の葉紋である。
(テレビ番組の「ファミリーヒストリー」で里見浩太朗さんが取り上げられました。里見さん
のもともとのご先祖は井手の佐野一族で、本家は「八角の内に梶の葉」の家紋ですが、
里見さんの家は「丸に梶の葉」を用い、やはり井手の佐野一族同様、諏訪家系だそうで
す。同じく俳優の佐野浅夫とも親戚との事)参考: http://roots.blog.jp/archives/cat_
741597.html

駿河国といっても甲斐武田の属国になっていた時期も長い富士宮である。井出や内船と
いう甲斐国側へと山を下りるよりも、峠を超えてこちらの富士宮へ移住した方が、開けて
いて住み心地が良いだろう。

私の竹之島の「本家」も、すでに静岡へ移住したらしいが、富士宮かどうかは、もはや疎
遠のようで誰も知らない。第3の章で語るが、内船の佐野氏の大屋の墓誌を作製した業
者も富士宮だ。今も昔も、この辺りは甲駿境で、交流の盛んなエリアのようだから、我が
佐野一族が富士宮方面に遠い昔から随時、移っていったという仮定は容易に成り立つ。

このHPに富士宮ご出身で東京在住の佐野様よりメールを頂いた。やはりご先祖の探
索をなさっているとのことで、佐野様の家も立ち梶の葉の家紋で、やはり中学時代はクラ
ス40人中8人が「佐野」だったそう。また伝えられる家系には六孫王経基がおり、つまり
源経基、つまりつまり梶の葉家紋の諏訪家を開いた源満快の父で、ここにも、甲州・駿
河の境に分布する佐野家の諏訪氏系の気配が濃厚だ。佐野様、メールありがとうござい
ました!

石神峠からの富士

                                    石神峠から佐野を遠望



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