第3回 いよいよ「佐野」の地へ

平成2年(1990)、5月19日〜20日にかけて、つまり普通の土・日を利用して、いよいよ新
編陸奥国志に「佐野の地は甲州の南方、河内領と云ふ。冨士の西につきて、山中に
佐野、下佐野あり」と記述され、また、我が家の祖先が天文の頃、竹之島に移住するま
で住んでいたと伝えられている「佐野」に、400年後の今、ついに私は踏み込む。

こんな車で。 運転手は会社の後輩O君(先祖は平氏系)

会社の後輩で、こういう変わった活動に関しては良いノリを見せる男がおり、「よ〜、今
度の土日に佐野家先祖探索の旅で秘境に行くが、関係ないけど付き合うかぁ?」

これほど素敵な旅の誘いはないだろう、少なくとも彼には。

土日で? 先輩の先祖? 秘境? 自分に関係ない? これらの誘い文句ほど彼を刺
激するものはないからだ。

そんなことはともかく、内船の町役場に問い合わせたら、上佐野迄は舗装はされてはい
るが車はスライドできないくらいの狭路を16kmほど入った山の奥とのこと。

     
キャプチャ-画像も入るので少し解像度悪いが、富士川に注ぐ佐野川・林道入口にある温泉・上佐野への道


谷合の林道を16km                   天子湖
しかし1952年に完成した柿元ダムによって堰き止められた佐野川には天子湖という人
工湖があり、佐野川渓流の釣り場になっていたり、また天子ヶ岳や長者ヶ岳への登山口
になっていたりして、上佐野にはキャンプ場もある。



これが幸いして、佐野の地には民宿があり、私たちはそこに泊まることになった。キャン
パーでも釣り人でもない珍客だが。

ともかく宿に着くと、私たちは探索に出た。普通ならば茶畑の広がるこの山里の大自然
満喫というわけだが、私らが真っ先に向かったのは、当然「墓地」である。

  
上佐野の茶畑                  この辺りの山上から見える富士山

ところが、なんと、その墓地には「佐野」なんてないのだ。聞けば、近くの〇〇村に佐野さ
んという人はいるが、変わり者なので行かない方が良いとアドバイスされる始末。こっち
も充分に変わり者だが、まずはパス。「佐野だらけ」を想定していたので肩すかし状態
だ。仕方なく霧にむせぶ山道、ほぼケモノ道を背広姿で這い上がり、佐野峠まで上がっ
た。上がったら、何のことはない、ガードレールのある車道で、車でくれば済むところだっ
た。近くにマムシの養殖場などあったが、今にして思うと、あの山のケモノ道は危険だっ
たのであろうか? 20年後に気づいても仕方ないが。



上佐野・思親山案内   持ってる佐野峠の杭はもともと抜けてたぞ      上佐野風景



        林道途中の風景     雨の中も背広でビニールに包んだハンディカム 佐野峠起点

ともかく収穫ゼロの佐野の現地調査というショックを、明日の井出訪問への期待で鎮静
化すると、私たちは民宿に戻った。

 お世話になった西川荘上佐野・現在

そこに当時、西川荘という民宿があった。矢川知道さんという夫婦が経営していた。井出
の町も通ったが、ともかく本拠地・佐野が優先だ。帰りに例の家系図のちゃんとしている
諏訪氏系佐野氏の家紋でも調べるか、という旅程だった。

この民宿・西川荘は多分、今はもうない。2011年現在調べたら、上佐野には「冨士屋」と
いう民宿が1軒あるのみだった。1996年のある人のブログに「老夫婦の経営する西川荘
に泊まる」とあるから、6年後はまだ経営されていたようだ。

ともかく、ここの親父さんが気さくな人で、たまたま何かの作業でこの地を訪れ同宿にな
った埼玉県所沢の佐々木さんというトラック野郎と私たちで、夕食後はもはや、寝入るの
が早い田舎とは思えない大饗宴となり、深夜まで飲んで大騒ぎだった。親父さんは、客
用のピール・日本酒が底尽きたので自分の酒を持ち出すし、当然、私らの自前のビール
も全部みんなで飲み干した。

その酒宴の席で親父さん(この近隣では歴史通とのこと)に聞いた「佐野伝説」

ここは佐野備後守常代という平氏の一族が落ちてきた地という。また天子峠の名の由来
は、後醍醐天皇(天子)の娘が、「京の都から見て、のろしの見えた麓の男子と結婚せ
よ」という御神託に従ってやって来て、男子と結ばれたという伝承によって、「天子峠」と
名付けられた、という。また、下佐野が先に開け、上佐野はやや後に形成された集落で
700年ほど昔のこと、らしい。

追補: 学界主流からは「偽書」とされているそうだが、古事記、日本書紀にも勝る9000
年の日本史を綴った奇書・宮下文書というのがあるらしい。そこに「佐野の地」にまつわ
るこんな記述があるそうだ。1333年、後醍醐天皇は実は隠れ南朝として富士に入麓。天
皇をお連れしたのが佐野源左衛門尉義正という人物で、まずは佐野の地に仮宮殿を設
営し天皇を匿った。その後、天子ヶ岳を越えて今の田貫湖付近に落ち延び、本殿を造っ
た。それが今の田貫神社とのこと。また佐野の地に設営した仮宮殿はダム建設時に湖
底に沈んだが、館跡はそれまで存在していたという証言があるそうだ。

また、天皇は天子ヶ岳で目印のために高く狼煙の煙を上げた、らしい。

田貫へ移った後もこの隠れ南朝は4代続き、守っていたのは「佐野の千頭の騎馬隊」で
あり、これが後に武田家の軍勢の基礎になったという。

・・・時代といい、「峠の狼煙」といい、後醍醐天皇がらみといい、この記述は親父さんの
語る「佐野伝説」にシンクロしている。また、天皇を助け、武田軍団の基礎をつくったなど
という大手柄の佐野氏まで登場するわけだ。でも、この時期、佐野の地は何かの事件の
舞台になっていたような、そんな気配がある。

(親父さんの話は、炭焼き長者・松五郎の伝説のことだと判明。ただ、後醍醐天皇が伝
説に登場しているのは、狼煙のシチュエーションといい奇妙に合致する)



この付近の山間の集落は、どこでもそうだが、「平家落人伝説」がある。佐野の地も例外
ではないようだ。ネットで拾っても「佐野の集落は平家の落人が隠れ住んだほどの僻地
だ」とか「佐野は意外なほど山深い。完璧に平家落人の村だ」とか断定されている。

佐野備後守常代なる人物が開祖と云い伝われているようだが、「落人=平家」となってし
まう日本人の美意識を差し引いても、「落人」であることだけは確かだと感じる。平成の
今でもこのような山奥に、400年前の人が好んで暮すわけがない。人との接触を避けて
自活するための集団であったはずだ。すなわち、「諏訪氏落人」であってもおかしくはな
い。

戦国大名としての諏訪氏が武田家に滅ばされたのは天文11年(1542)である。もちろ
ん、この事実とは関係はない。我が先祖がこの地を後にして竹之島に移住したのがこの
天文年間だからだ。つまり「もうこんな山奥に隠れ住む必要もないぞ」と山を下ったのだ
し、追手の脅威などとっくになくなっていたはずだ。

源氏でも何でもそうだが、地方には地方の仲間同士の小競り合いがあり、敵を根絶やし
にする当時としては敗れた方は「落人」と化して逃走するしかない。そんな歴史に名の残
らぬ小競り合いの末に、諏訪氏の傍流が信濃から落ちて来たって不思議ではないわけ
だ。諏訪氏が史料の中に登場するのはすでに平家物語からだから、700年前に諏訪氏
同士の内紛なりの落人がいてもおかしくはない。

というわけで、「旅」としての楽しみは満喫できたのだが、「先祖調査」の大義については
グダグダのまま、翌日となる。私たちは、民宿を後にして、予定通り山を下って井出の地
へ入ろうと車を走らす。

すると途中に、なんと大きな石碑で「佐野庄旧蹟」というのが建っていたのだ。



その内容を写したものが以下である。

佐野庄旧蹟

佐野村は清和源氏経基の後裔庄領讃岐守重宗が氏を佐野に改め、後、佐野源左衛門
常代が庄を佐野村と唱え、封建の世、上下佐野村に別れ、明治七年五ヶ村合併、栄村
下佐野区と称し、昭和十八年柿元貯水池工事着手の為め全区24戸の内8戸が富士宮
方面に移転す。
八幡神社は弘安(1278〜87)の始め、応神天皇を源左衛門常代等が内ヶ谷戸404番地
に勧請〜(以下は、近代の教育の話なので割愛)


あの民宿の親父さんが言っていた「佐野備後守常代」とは、この石碑にある「佐野源左
衛門常代」のことだろう。(あの謡曲「鉢の木」で有名な佐野源左衛門は「常世」である)

 八幡神社 一応、上まで登った  上佐野八幡神社

八幡神社を弘安年間に勧請したというのだから13世紀の人ということだ。親父さんの700
年前とも符合する。(でもこの石碑を見てたかも知れないし)

ただ、土地の名から姓を決めたのではなく、自分の姓から地名をつけたということか。

冒頭の「清和源氏経基」の子というのは、なんと諏訪家の祖である源満快(経基の五男)
である。この満快の子孫が信濃国に土着し、信濃諏訪の祖となった。こんな名門の流れ
の源左衛門常代が、こんな山間の集落の名付け親となったということは、「落人」だ。

 源 経基  諏訪氏ゆかりの梶葉紋

ちなみに、冒頭の清和源氏経基は938年(承平8年)に武蔵国に派遣され、そこで平将門
の謀反の疑いを朝廷にチクった功績で栄達した人物だ。秀郷の子孫でなくとも、やはり
私はあの首塚には近寄らない方が良さそうだ。

ともかく、経基の後裔の讃岐守重宗という人物がよく分からない。経基の五男で諏訪家
の祖とされる満快の兄に満政というのがいて、その孫が佐渡守重宗というが、それのこ
とか。ならば、ちょっと流れが変わるな。この佐渡守重宗も確かに「経基の後裔」には違
いないが、信濃にも甲斐にも無関係だし、「佐野」に改姓したとも書いてない。

 後輩と柿元ダムで記念撮影、このあと悲劇が・・・

佐野庄旧蹟をあとにして、柿元ダムなどに寄ったりしつつ、私たちは一路、井出へと向か
った。

ところがだ、なんという不運か、一本道の林道が土砂崩れで埋没しているのだ。



       まだ崩れてくる土砂の流れ         せっかくだから危険だけど土砂崩れと記念撮影

まだ土砂は上から崩れてきており、もともと路面にも落石があっちこっちの危険な林道だ
ったわけだが、これでは危険どころか通行不能である。のんきに土砂崩れと記念撮影な
ど済ますと、私たちは林道を引き返した。

しかし、土砂をバカにしたようなふざけた記念撮影をしたせいか、引き返す途中でついに
落石を踏みつけてタイヤがバースト。まったく涙も出ない。

ともかくスペア・タイヤに交換するしかないわけで、緊急事態には慣れていない私たちは
おぼつかない手つきで、ジャッキやらレンチやらを取り出していると、なんと、西川荘で同
宿し一晩を楽しく酒盛りしたトラック野郎佐々木氏が救世主のごとく現れた。


                 
         パンクの図            救世主・佐々木氏のトラックとタイヤ交換風景

「ほれ、貸してごらん」と佐々木氏は、さすがプロ、手早い動きでサクサクとタイヤ交換を
やってくれた。

不幸中の幸いである。我々の調査目的は何かの力で阻止されたが、別の何かの力で急
場が救われる不思議を味わう。

土砂崩れ情報を私たちから聞いた佐々木氏は「困ったなぁ、すぐに戻らないと行けない
んだよ。仕方ない、峠越えして内船に下りるか」と言って、私たちと別れる。(岩手龍泉洞
近くのご出身とのこと。本当にいい人だった。ありがとうございました!)

なるほど、峠越えして違う林道を下りれば良いのか、というわけで私たちも気を取り直し
て黄色いスペア・タイヤで幾分か車体が下がったようだが、走行に支障はないので再ス
タートする。

   そして、一路、また佐野へ!  

すれ違う車に声を掛けつつ来た道を戻る

途中途中で、すれ違う車(この辺までくると釣り人が少しいる)に土砂崩れのことを教えつ
つ、別れを惜しんだ佐野の地に再び立ち戻った。400年ぶりの子孫の里帰りの後は今度
は随分と早い里帰りだ。

「先祖の地だから俺をなかなか帰してくれないんだな」とか言っているのがビデオに入っ
ていた。

明日は会社だし、そういうわけには行かないのが、土日というハンディである。

  「どうすっぺ?」と談義中の人びと

帰路を絶たれて困り果てた釣り人らの乗用車がすでに数台集結していた。駐在の警察
官もカブに乗ってやってくる。皆で話し合っているようだが、佐々木氏の素早い決断のよ
うに峠を越えれば良いだけじゃん、とか私たちは思っていた。

が、話し合いの内容はこうだ。峠の林道は未舗装のデコボコ道だから、普通の乗用車で
は難しい...とか。

でも、あの土砂崩れでは井出に下りる道の復旧など見込めない。ここに宿泊して待つ
か、峠越えを敢行するかだ。私たちは、後者しか選択できない哀れなサラリーマン。

 まずは四駆が峠越えを決行

まずは四駆のジープが、さっさと出発する。「ジープ買ってて正解だぜ」とか車内で絶対
に言っていたと思う。

普通の乗用車や軽自動車も、しばらくすると意を決してスタートし始めた。

「先に行かせりゃ大丈夫だよ。通れたって証拠だし。後発で正解!」とか私が言うと、後
輩の彼が少し暗い面持で言う。
「でも、この車、スペア・タイヤですよ」と。

そうだった。とんでもない話だ。先のパンクで普通の普通乗用車よりも普通ではなくなっ
ていたのだ。しかもそれで、ジープ、トラックしかお奨めできないような未舗装のデコボコ
林道を峠越え?



村人らも「底打ちするよ、それじゃ〜」とか、品川ナンバーの若者車を蔑むような目で見
て言う。

「けどさ、明日の今頃は普通に仕事してなきゃならないんだぜ、俺たち」
「ですよね」

そんなわけで、最も不利な状況で佐野峠目指して我々は出発した。

    
途中でタバコ吸いつつ記念撮影などしながら、険しい峠の未舗装路を完走する

確かにちょっとハンドル切れば奈落に落ちるような険しい林道ではあったが、それでも途
中、佐野峠の休憩場(今みたいに整備されたパーキングなんてなかった)でおバカなビデ
オ撮影とかしながら帰ったので、この話は盛り上げるだけ盛り上げた結果、大したオチ
はない。

そんなことよりも、私たちがようやく安定した路面を下って行ったその時、数軒の民家が
目に入った。と、同時に、大きな墓地が視界に広がったのだ。

内船寺の墓地群である。



山の中腹・内船寺の墓地


「おー、止まってくれー」と私は思わず叫ぶ。(叫んではいないが)

そして、車から降りると、そそくさと墓地に入り込んだ。

 

なんと、感動の瞬間。

そこは、まさしく「佐野」だらけの墓石群ではないか!!

土砂崩れでこちら側に引き返したおかげで、山腹の墓地、しかも夢にまで見た「佐野」だ
らけの墓地に、私はエスコートされたわけだ。

背筋が寒くなった。ご先祖の導きのようなスピリチュアリティを感じた。

そして、私は、もはや当然の約束事みたいに、そこに無数の「丸に梶の葉」の家紋の
神々しいばかりの彫刻を目にするのだ!

  

どれもこれも、「佐野」「佐野」。そして「丸に梶の葉」「丸に梶の葉」。

あたかも、「これで満足だろ? そういうことだ」という声が幻聴のように400年の彼方か
ら聞こえているような気分だ。

  



やはりそうだったんだ。佐野治兵衛が天文年間にこの地を出て、竹之島に移り住み、
弟・次郎左衛門徳将が我が家を興した。その言い伝えは本当だったわけだ。佐野の地
にすでに佐野家がほとんどいないのは、遠い先祖が身を隠すために潜居した不便な地
から、この内船や井出のような開けた地に随時、移住して行ったからだろう。その頃を13
世紀としたら、すでに天文だと300年の歳月が経っている。隠れ里から佐野一族がほぼ
転出してしまうには充分な年月だ。

で、さっそく私は「大屋」の墓石を探した。

  

大屋の墓石とそこにあった家譜略歴、そして古い墓石

案の定、そこには「家譜略歴」という石板が建っていた。

こうある。

清和天皇第四子貞純親王長子経基也太祖。
第拾代庄領讃岐守重宗姓改佐野
拾六代源左衛門庄唱村始佐野村
拾七代十良子治兵衛也祖先
以降確認歴代拾参名證火災焼失
明和六年七衛門次代稚定至現世
永禄拾貮年盛次苗字被授明治初
郷名廃止依是確認

      富山三十七世   日源書
      昭和四十八年一月 富士宮市豊町6-10
                  二ノ宮石材刻

まるで漢文の白文だ。昭和48年に作ったのならもっと口語訳にして欲しい。

ちなみに、この石材店は今も(有)二の宮石材として同所に存在している。

そんなことよりも、この内船の佐野家大屋の「家譜略歴」に語られているものも、「佐野
庄旧蹟」の内容とスタートは変わらない。でも、注目すべきは4行目である。

そう、なんとここで、我が家の次郎左衛門徳将の兄と言われている治兵衛の名が登場し
たのだ!

しかも「治兵衛が祖先である」と明記。なるほど、あの常葉氏に仕えてその領地の一角を
護り、戦国末期よりその地に土着帰農したという史料に名の残る治兵衛がついにここに
登場した。

「十良子」とは何? 佐野の村名を唱えた源左衛門は「佐野庄旧蹟」にあった通り13世
紀の人のようだが、それが16代で、治兵衛が17代っていうのはおかしい。源左衛門から
16代ということか?

この疑問に関しては、このHPにメールをお寄せ下さったY様により解決。Y様のご実家
は下佐野庄柿元大家として佐野庄の右方を護る家としてかなりしっかりした家系図が残
っているそうで、初代は1362年没の佐野治兵衛。私が年代が合わないと勝手に悩んで
いた我が家の祖・佐野次郎左衛門徳将の兄である戦国期の佐野治兵衛は、Y様の家の
系図での9代目佐野治兵衛・1577没ではないかとの指摘。確かに、それなら辻褄が合
う。佐野治兵衛は何人も存在していて、上掲の家譜略歴中の佐野治兵衛は、Y様の初
代・佐野治兵衛・1362没を指していたわけだ。また我が家の祖である次郎左衛門の兄の
実在が没年まで分かって確認できたのも、この400年以上も前に枝分れした遠〜いご親
戚のY様のメールのおかげである。尚、このY様の家に伝わる資料によれば、南北朝の
時代に、佐野庄を3つに分け中心を下佐野大家(佐野庄館主)、左の護りを上佐野大
家、右の護りを柿元大家とした、らしい。その後、三家とも佐野の地を離れてしまい、Y様
のご実家である柿元大家がこの内船にて存続、現在に至っている。400年前の従妹みた
いなY様の貴重なる情報提供に、心からの感謝をお送りいたします!

  

正住山「内船寺」(うつぶなでら、ではなく「ないせんじ」と読む)山から来たのでこの階段は上らずにすんだ

歴代13名の確認が文書焼失のためできないとあるが、この寺は実は「内船寺」といい、
寺史によると確かに寛政(1789〜1800)と安政(1854〜59)年間に二度の火災に見舞わ
れている。(ちなみに創建は1277年)

次の「明和6年」とは1769年。つまり火災の前だ。これは七衛門次の代を継いで今に至
ると推定(「稚定」とは誤写か。ビデオでも読めぬ)される、ということだろう。火災焼失の
記録の他に七衛門だけ確認がとれている、ということだろう。なぜか、墓石や記録は18
世紀のこの辺りで途絶える。墓石というものの限度なのか。

で次の行の永禄12年に盛次がどうのこうのの箇所。永禄12年は1569年。「佐野一族」
で、井出の佐野家の項で、「下佐野の人に佐野讃岐守盛次ありとも記したり」とある。実
在が確認できている人物のようだ。断片的記録なのだろうが、立地的に同族と推定して
書かれた人物だろう。だが、ここにその名が刻まれている。

しかし、その次の記述が分からぬ。明治の初めに郷名が廃止になり苗字を被授されたと
きに、永禄12年盛次の名が確認できている、ということか? 前の文章が、火災により
歴代の記録が焼失し、明和6年の七衛門が代を継いでいると推定されるとあるので、そ
れよりも200年古い先祖である盛次を明治初期の確認作業で先祖の中に発見している
よ、という話か? それか、明治初期の苗字許可令か義務令の時に、この先祖を確認し
てその苗字を公的に名乗ったよ、ということか?

なんでも良いが、こういう旧蹟やら墓誌やら、もったいぶった記述って伝わらないと意味
がないような気もするが。

ともかく、土砂崩れのせいで、反対の下山道を進むはめになったおかげで、この内船の
墓地に導かれた。そして、そこに、同じ家紋を確認すると同時に、我が先祖がかつて居
住していた地にも、類似する伝承が残されていることが分かった。また、資料による推
論、つまり信濃諏訪の流れの者が何かの事情で佐野の地に潜居して、その血筋の諏訪
の家紋(梶葉紋)をそれゆえに子孫に伝えた、という推論が、こうして裏付けられたことに
なった。

ここまでやれば、素人なんだからOKとしよう。

そして、私たちは、スペア・タイヤのまま中央自動車道を突っ走って東京へ帰った。

こうして、我が先祖調べの一連の話は終わった。竹之島の親類縁者も代を重ねるごとに
疎遠になっている。祖父も父もすでにこの世になく、地方の親戚筋の所在すらよく分かっ
ていない私たち世代が今は当主。少年期の山里の思い出は、もはや父方の山梨も母方
の和歌山も頭の中では混沌とし「田舎」で一括りになっている。

せめて、そのますますこれから疎遠になっていくだろう時に、かすがいの役を果たせたら
幸いである。私の知っている範囲では、残念ながら佐野家の系譜などに関心を示してい
る者はいない。このHPがネットに残っていれば、誰かがこれを開いて、さらなる考察の
足掛かりにしてくれるかも知れない。

それにしても今、思い出すのは、あの竹之島での一夜である。馬刺しが旨かったとかそ
うことではなく、窓を開けても山の腹しか見えない静かな地で、消灯後に布団の中で起き
ていた時だ。

なんとも私は表現し得ないほどの安らぎを覚えていた。先祖霊の温かみに満ちた気配と
でも言うのか、今までにあれほど霊妙な妖気というものに恍惚とした覚えはない。そんな
アイデンティティの根幹を癒されるようなミステリアスな快感は、貴重な体験だと思う。

佐野家に関係のない人も、それぞれにそんな体験をして見ると、先祖調査の楽しみや不
思議や、ちょっと奇妙な体験ができて面白いと思う。




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