第2回 藪っ蚊に刺されつつ竹之島の墓地を調査


そして、昭和59年8月7日から8日にかけて、私は第1回現地調査として、我が家の生地・
山梨県南巨摩郡身延町常葉竹之島へと乗り込む。

こんな車で。 そう、ホンダ・シティが発売された頃の話だ。


そんなことはともかく、この章はかなり退屈極まりないものとなる。

関係地の位置関係・今回は右側にある竹之島


 

近くを走る身延線(撮り鉄でないのでへたなアングル) 右は恐るべしGoogle Earthにあった竹之島画像
 上空からの竹之島集落

竹之島には、祖父の長兄の息子・佐野章八氏が住んでおられ、江戸期からの墓と明治
期からの墓を管理していた。江戸期からの古い墓地は居宅の裏の竹藪の中なのだが、
当然、風雪に荒れ果てた状況だ。倒れて草に埋没している墓石、台座だけで後ろ側に倒
壊している墓石、ヘンな苔に一面覆われてしまった墓石、かろうじて立っているものも触
ればグラグラする始末。すでに摩耗して刻銘が判読不可能の墓石もある。

これらのものを、すべてチェックしたわけだが、多分、今日すでに墓石表面の彫刻が確
認できないものも多々あるはずだ。なぜなら、ヘンな苔をそっとブラシで剥ぎ取ると、薄ら
ぼんやり法名や元号が表れてくるが、石肌自体が剥離寸前の状態なのだ。つまり、読み
取って記録するは良いが、その石肌はもはや薄皮みたいな状態。雨風に耐えられるわ
けがない。まさしく最後のチャンスみたいなものだ。

つまり、この江戸期に刻銘された文字は、遠からず永遠に失われるであろう。しかしこの
調査によって、その名はネットで世界中に広められたわけだ。(世界中の人が見るわけ
ないが)

従って、他人のご先祖の訳の分からぬ法名や元号の詳細となり、私の女房でも面白味
を感じないほどの内容となる。



まず、江戸期のものは、上図のような墓石群の配置となっていた。分家ごとに数基ずつ
固まっているわけだ。

Dの「太田家」というのは、古くからの我が一族の別姓の分家。Fは大屋、つまりこの周辺
の佐野家の本家のもの。但し、いつ頃からそう呼ばれていたかは不明とのことで、私の
曽祖父・寅吉の代からはそう呼ばれていたという。しかし直系はすでに絶え、縁者も静岡
に転居したとのことだ。

夏の盛りなので、作業は困難を極めた。防虫スプレーを塗りたくって構えたが、流れる汗
でたちまち意味がなくなる。そこに藪っ蚊は来襲するし、草の中に埋没した墓石を引き起
こせば、訳の分からぬ虫たちが群がり出るはで、インディー・ジョーンズ「魔宮の伝説」状
態。(あれほどではないが)

ともかく、その誰もが関心を示さないだろう詳細を記述する。

まずA地点の墓石の文字。

墓石正面/享保十九年(1734) 百(少し違う字体)室道呂上座 八月十六日
墓石側面/宝暦三年(1753) 年室姉新大姉 正月九日重三良妻

墓石正面/桃屋理益禅定門
      空蓮山姉銘(少し違う字体)禅定尼
      悟安(?)描禅定尼
      春應月雨禅定門
墓石側面/天化(?)年   「天化」という年号なし

地蔵の彫刻のある小さな墓石正面/(?)暦七月二日佐野市良右ェ門孫

墓石正面/天保十五、(1844) 月(?)了(?)上座 八月(?)二日
墓石側面/弘化三(1846)(?)(?)
(この墓石には梶の葉の紋が確認できた)

次にB、C地点の墓石の文字

墓石正面/沼屋明貞禅定門 観應妙念大姉 (全面苔に覆われていた墓石だった)
墓石側面/文久元年(1861)十二月十二日 明治四十一年(1909)

墓石正面/青山了夢禅定門 雪山姉昌禅定尼
墓石側面/天保十五年(1844) 三月十二日

 他に「天保」(1830〜43)の刻みのある墓石一基あり。

最後にE、F地点の墓石の文字

墓石正面/空銀應了山大姉
墓石側面/天保六年(1835)

墓石側面/文政(?)年(1818〜29)七月(?)
(墓石正面は判読不能)

墓石正面/實相妙貞大姉
墓石側面/文政十年(1827)二月二十七日
(この人は過去帳にもあり。彦兵衛の妻で没年は文政10年2月2日とある)


判読可能なものは以上である。

そして、各地点の墓石の様子は以下の通り。なお、名家録の中に記載されていた「庭内
にある名家たるを思わしむ」五輪塔は、最初、この調査の段階では「そんなものなかっ
た」と終わっていたが、それは私の知識不足で、その後、「山梨県の歴史散歩」という書
物に鎌倉時代初期の武田信義の同じような形状の墓石を「五輪塔」と表現していたこと
によって、下の下段の写真が「五輪塔」もしくはその崩壊後の台石だと判明。もっとも信
義の五輪塔は1.4mもあるが...。

 
本家の墓石群・傾き、苔におおわれている

 
名家録にあった今庭内にある苔蝕したる五輪塔数基は由緒ある名家たるを想わしむ
に該当すると思しき本家の"五輪塔"

 分家・C地点にも五輪塔を発見

  
我が家直系のE地点の墓石  奥に見える分家C地点の墓石

 
六地蔵が掘られたA地点の墓石と同じくA地点の小さなお墓

 
こんな竹藪の奥にも墓がある!      墓石の後ろには倒れた墓石が数基

これは本家の屋敷神を祀った御蔵。諏訪大明神を期待して木製の観音扉
を開けたら、なんと「春日大明神」!蜘蛛が守り神の化身のごとく札に取っついてた。



上に「空」と書かれ、下に4名の出家者と思われる法名(A地点)

そして、新しい明治期に移設された墓地。

 
明治期の新しい墓地全景と新しい墓の中でも古そうな墓石



こちらは、明治以降のものばかり。ただ旧墓地に葬られた先祖らの碑をそっくり移すわ
けなので、刻銘はしっかりと読み取れる。大屋の碑に至っては、改めて先祖の名を列挙
してあり、驚くべきほど明確な名前が刻まれている。(上の写真)

その内容を記す。

佐野家血族者名
     ・
佐野備中守広政
佐野越前守太郎
佐野讃岐守源左ェ門広光
佐野 岐守広綱(一文字とんでいるようだが....)
佐野太郎広實
佐野下總守三郎広時
佐野河内守広行
佐野左近太夫広基
佐野左ェ門尉広盛
佐野五郎左ェ門尉広徳
佐野平六左ェ門尉徳重
佐野兵左ェ門尉広正
佐野甚右ェ門
佐野甚左ェ門
佐野甚五ェ門
佐野与市兵衛
佐野円(丹?)右ェ門
佐野与兵衛
佐野要吉
佐野艶平
佐野いその

佐野家初代
佐野讃岐守次郎左ェ門尉徳将

昭和十一年三月二十日佐野訓建之


ちなみに、私の曽祖父は昭和20年没の寅吉(妻・春子、昭和27年3/1没)であり、その父
親は明治26年8月9日没の与左ェ門(妻・はな、昭和15年9/23没)である。一文字を襲名
しているとすれば、上記中「佐野与兵衛」「佐野要吉」つながり辺りが、私の高祖父・曽祖
父の代だろう。(しかし我が高祖父・与左ェ門さんは早死にだな。)

また最後の「いその」は米吉という夫を養子に迎えているそうだ。

どちらにしても、途中で我が直系とは分岐しているはずである。

長く「広」の字を襲名しているようだが、この血族者名の出典はどこなんでしょうか??

退屈な記述のついでに記す。分家の霊廟にあった刻銘。最初の8人は江戸期である。

 心霊写真? 分家の霊廟

なお、画像に入っている赤い横筋の光は? 心霊現象だろう。赤い光は霊が喜んでいるそ
うなので、気にしてないし、今さら気づいても遅い。

忝室理安上座 天明三卯(1783) 三月六日安右ェ門了
忝屋妙安大姉 天明八申年(1788)四月朔日 同人之妻
春山全蜿纃タ 享和三癸亥(1803)正月廿三日 吉右ェ門了
不安妙性大姉 寛政十二申(1800)十月十六日 同人之妻
重山埋雪上座 文政七申(1824)十二月十八日 甚之丞了
天笠妙后大姉 天保三辰(1832)十一月廿一日 同人之妻
實道明傳上座 文久二壬戌(1862)五月廿一日 豊兵衛了
大芳妙悟大姉 天保九戌(1838)九月廿六日 同人之妻

(以下・法名略・月日略)
源三郎 明治二十四年没
妻・つや 明治四十四年没
伊三郎 大正七年没
祐一 大正(?)没
忠義 昭和五十七没
まし志 (未記)

以上である。干支が入力面倒極まりない。(干支がどんだけ読めないかよく分かった)
ただちゃんと西暦とその干支が合致しているあたりがすごい。(当たり前とも言えるが)


次に、一泊させて頂いた祖父の長兄のご子息・佐野章八氏の家には、家系図というか、
法名で書かれた「先祖代々有縁無縁三〇萬〇〇」(三界萬霊仏?)という掛け軸が保管さ
れていた。かなり古いものと推定できる。しかし、例によって法名ばかりで、しかもルーツ
調査にとって参考になるべき記載はないようだ。

これは空欄のマス目に、どんどん亡くなったら法名・俗名などを書き加えていく設定にな
っているようだ。

ただ笑えるのは、筆跡から推測するに、昭和15年没の秋月院花顔妙寿大姉(高祖母は
な)とその5年後の昭和20年没の梅光院寅大徳潤居士(曽祖父・寅吉である)、昭和27年
没の梅香院寅室徳大姉(寅吉・妻の春子である)を書き加えた段階で放置されたようなの
だ。

分かる範囲ですべて誰かが一気に書いて、この掛け軸を完成させ、世々代々の者に記
入させて大掛かりな家系図を伝えて行こうと意気込んだのであろう。しかしなんと次の代
でその遺志は潰え去ってしまったようなのだ・・・。(二種類の筆跡しかないから分かる)

つまり、曽祖父母である寅吉・春子を書き込んだのは、当然、長男(祖父の長兄)である
源重さんだろう。しかし、その源重さん(昭和45年没)自身の法名の記載がないとなる
と・・・そう、放置の始まりは源重さんの息子、つまり目の前の章八おじさんではないか !

 佐野章八氏  ついでに南方戦線時代の雄姿も





これがその掛け軸である。

我が祖父が東京に分家して、たまたま購入した墓地の寺(世田谷・慈眼寺)が真言宗だっ
たので宗旨替えしたが、もともとは佐野家は禅宗だったようである。
(ちなみにこの慈眼寺には巨人軍の藤田元監督の墓もあり、彼を慕う原監督も墓を購入
したという、「巨人軍隠れ聖地」となっている)

また、諏訪氏の宗旨は曹洞宗であり、禅宗である。

向かって右が男性・左が女性の構図であるが、なぜか一人だけ出っ張っている。

仏教のことは知識皆無であるが、右図のように、中央に絵図があり、以下の念仏のよう
な文字がある。

(中央絵図・右内側から)
南無文殊菩薩 南無観世音菩薩 南無永平開山大和尚
(中央絵図・左内側から)
南無普賢菩薩 南無六道能化地蔵尊 南無常幸開山大和尚


そして、絵図の下に大きく、右に、得将院機屋洲創居士
                       天正十八年二月十日 佐野次左ェ門徳将

                  左に、得壽院家屋妙榮大姉
                       文禄二年四月十一日
以下、小さい字で上段内側から古い順に以下のようにある。

(男性)
霜屋了庭居士 文化十四年十一月二十二日 重郎兵衛 父
祖道老玄上座 安永二年五月九日 重郎兵衛了
徴(?)山利壁上座 文政元年七月十日(墓石の文政〇年七月〇の墓はこの人のか?)
春山貞林上座        一月十四日 彦兵衛(過去帳では文政六年没)
木源明性上座(過去帳では文久6年5月23日没とある。但し文久は4年、1864迄)
慈得院紅山(竹)葉居士 明治六年過去帳の与左衛門と戒名だが? 没年相違。竹→明
機山玄道上座 過去帳には、この人は明治22年没の文兵衛と俗名あり。
中安了(秋)上座
中安秋上座 文政六年八月八日 庄左ェ門倅
春夢禅童子
梅光院寅大徳潤居士 昭和二十年(曽祖父・寅吉)

(女性)
十相妙圓大姉 元文二年三月八日(正確には元文二巳年・1737年、これが最古!)
性室信法大姉 宝暦十年十一月二日(過去帳の重郎兵衛の妻)
戒室妙珠大姉
實相妙貞大姉 文政十年二月二日(墓石確認。ただし同年二月二十七日没、とあり。彦兵衛妻)
(?)眠妙入大姉 明治三年八月九日(?)はにんべんに氷みたいな字。過去帳は「水」、文兵衛妻。
秋安了悟大姉 明治二十六年八月九日伐野文三・妻(与左ェ門の没年月日だが・・・)
秋月院花顔妙寿大姉 昭和十五年九月二十三日(与左ェ門・妻のはな? 過去帳と戒名相違)
春安理中大姉
梅香院寅室徳順大姉 昭和二十七年三月一日(曾祖母・春子)

我が家の仏壇にある過去帳は多くをこの内容に準じているようだ。どれもこれも断片的
であり、時系列化が出来ない。残念ながら、墓石も過去帳もこの掛け軸も、年代的には
江戸中期の元文までしか遡れない。過去帳の「重郎兵衛の母」が、「元(?)二巳年三月八
日没」とあるが、これは掛け軸女性陣のトップにある「十相妙圓大姉」だろう。天文二年
(1737)は巳年であるし、息子・重郎兵衛が安永二年(1773)没なので、計算は合う。

ただ、重郎兵衛・父が「文化十四丑年没」(1817)なのだ。掛け軸男性陣トップなのだが、
確かに文化14年と明記され、確かにこの年は丑年である。息子より44年も長生きという
ことだ。奥さん(十相妙圓大姉)を亡くして、やもめ暮らしが80年か?? 二十歳までに結婚し
て、息子・重郎兵衛の出産時に奥さん亡くして、そのまま自分は100歳近くまで生きれ
ば、この話は成り立つ。この霜屋了庭居士(俗名なし。重郎兵衛・父、のみ)、恐るべし!

曽祖父・佐野寅吉 曾祖母・佐野春子

そもそも、我が家の系図で分かっている(と言っても父母の記憶だが)曽祖父母が寅吉・
春子で、その親・高祖父母が与左ェ門・はな、であり、そこまでだ。寅吉さんは1945没、
春子さんは1952没なので、当然私は知らない。その寅吉さんの両親である与左ェ門さん
は1893没。はなさんは1940没。この早世だった与左ェ門さんの両親から先は推測となる
が、多分、1889没の文兵衛さんと1870没の「文兵衛・妻」だろう。

その上となると、1859没の彦兵衛・1827年没の彦兵衛・妻か?

どっちにしても、祖父母が生きている内に、簡単な話なので聞いて記録しておけば良か
った。(我が家の6代までの先祖は次章に譲る)

余談になるが、私の母・紀子の母親、つまり私の母方の祖母は、旧姓を「笠間なお」とい
った。私が生まれる前年に亡くなっているので、私は知らないのだが、母が父と結婚する
際に戸籍をとったら、この笠間家が士族であることが分かって驚いたそうだ。秋田出身
だったようだが、笠間家は笠間市のある茨城の豪族で、戦国時代は佐竹家の家臣、家
康に秋田への転封を命じられた佐竹家に従って当地に移った家来の末裔らしい。

そもそも日本で先祖探しを「ルーツ探し」なんて言われるようになったのは、1977年にテ
レビ放映されたアレックス・ヘイリー原作のテレビドラマ「ルーツ」が大好評になったから
だ。今は先祖=ルーツ(根元)になってしまったが、この原作者アレックス・ヘイリーが描
いたご先祖の物語は、彼の母方の先祖の話である。だからというわけではないが、先祖
調査は、何も男系・直系でなくても良いわけだ。

多分この「笠間なお」さんの系譜ならば、かなり調査がしやすかったのではないか、と思
う。でも、まぁ、乗りかかった舟という事で。

先祖探索の三原則がある。

「本家をあたる」「郷土史家を訪ねる」「菩提寺をあたる」

この3つらしい。

このすべては滞在2日にもかかわらず全てやった。意外と基本に忠実な自分がいる。

まず、「本家をあたる」これは、前述のとおり、「大屋」は縁者が静岡に転出しており、竹
之島ではもはや断絶。無理。

「郷土史家を訪ねる」もやった。侮られないように、しっかり背広を着こんでいったので、
町役場に勤務しているという郷土史家の某氏を訪ねると、すぐに緊張した面持ちで出て
きてくれた。「東京からのビジネスマン的な人」を装ったおかげだろう。(この手は次章の
「佐野の地」編でも使って、おかげで山道で背広がボロボロになったが)

でも、この某氏は、佐野家うんぬんというコアな知識までは当然に持ち合わせていなく、
菩提寺に行って保存の佐野家過去帳を開示してもらったら良い、とアドバイスしてくれ
た。お仕事中に本当に申し訳なかった。(30年近く経ってお礼を言っても仕方ないが)

どの道、「菩提寺」に行くつもりだったので、真っ直ぐに向かう。

ここでも、背広姿は有効だった。それとも田舎人のご厚情だったのか、すぐに住職の家
の居間に通されて、お茶など出てくる。

でも、住職はこうおっしゃる。「各家の過去帳の保存状態は極めて劣悪。どこに何がある
かも分からないし、見つけたとしても、虫食いなどで判読できる代物かいささか怪しい」

早い話、「やめてくれよ〜」だ。

確かに一理はある。そのような大掛かりな大作業を依頼する筋合いはないし、これが東
大の学術研究史料になるとか、TV放映されるとか、そんなものであるならまだしも、たか
が個人の「ルーツ探し」だ。社会的には妥当な対応ですよね。

ということで、一応は、「先祖探索・三原則」はちゃんとやったぞ、ということで。

あと前章「資料で机上の空論を構築」の中で、我が祖先が「諏訪氏系」という推論が成り
立っていたわけだが、この竹之島周辺の「諏訪神信仰」状況についてのリサーチも行っ
た。

中興の祖・佐野次郎左衛門徳将の兄・佐野治兵衛が仕えたという常葉氏という豪族の本
拠地「常葉」には、ちゃんと諏訪神社があった。

 
常葉の諏訪神社と境内の樹齢4〜500年の大ケヤキ等のあれこれを記した下部町教育委員会の札

ゲートボールに興じる老人らがいるのみの静かな神社だった。かなりの樹齢の桜やケヤ
キやカヤ、エノキといった大木が境内を囲んでいる。

「常葉諏訪神社」という。諏訪神がこの地に祭られたのは鎌倉中期。この神社の建立は
建治元年(1275)。佐野の地に伝わる佐野邑に開祖が落ち延びてきた時代に合致はす
る。ただ、諏訪信仰はすでにこの地には伝搬しており、「吾妻鏡」の中にもこう伝えられて
いる。治承4年(1180)、甲斐源氏武田太郎信義、一条次郎忠頼等が頼朝の命で信濃の
平氏を討伐に向かう際、諏訪上社の大祝篤光の妻が夫の使いとして源家再興の祈祷に
参じ、その夜の夢に「梶葉紋」をつけた騎馬武者が源氏方と称し西へと向かう姿を見る、
これぞ(諏訪)大明神の示現と思った、という話が記録されている。

隣国なので信仰の伝搬も早いのだろう。この諏訪信仰の流れと、我が先祖が甲斐国に
移り住んだ事由はまた別物だと考える。なんとなく、この常葉諏訪社の建立と、言い伝え
られている佐野の地への潜伏時期が近いという点が気にはなるが、諏訪社建立は公の
こと、山奥の秘境に移り住むは隠密のこと、性質が異なる。


江戸時代のご先祖のことも確かに大切ではあるが、問題は我が一族が、どんな家系の
血をひいているかということだ。江戸期に長らく竹之島に居住していたことは確認でき
た。その「丸に梶の葉」の家紋も、江戸期にさかのぼっても変わらないことも確認でき
た。

 
これは世田谷・慈眼寺の墓の家紋
 

 


あとは、竹之島に移り住む前に住んでいたという佐野川の上流、山中の「佐野の地」に
我が祖先の痕跡を探すまでだ。(ちなみに、「佐野」という地名は山梨にはそこしかない。
地名由来の姓ならば、ここは「佐野の聖地」である)

そこには、信州・諏訪家の流れが住んでいて「梶の葉の紋」を使用していて、その地の名
をもって「佐野」を名乗っていたと1678年の公的資料に明記されている。すぐ麓の井出の
地には、この資料が編纂された100年近く前(戦国末期)から、このことを裏付けている
「佐野家」が今も実在している。

そして我が家の直接の先祖・佐野次郎左衛門徳将(1590年没)の兄・治兵衛は「佐野」の
地から竹之島に移った人物。弟・徳将が天文年間(1532〜54)に分家したのが、我が家
であり、家紋は諏訪家の紋でもある「丸に梶の葉」を継いでいる。

ただ1点、諏訪だからと、佐野の地、あるいはその周辺に今も残る佐野家が必ずしも「梶
葉」紋を使っているかは未確認である。この仮説を成立させるには、もはや「佐野の地」
での現地調査しかない。

で、第3回は、ついに「佐野の地」への突入編となる。突入といっても、勝手に行ってきた
だけだが。






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